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関心を持てる事柄について

YAPC::Hakodate 2024に参加して、個人技と工芸と工学について考えた

YAPC::Hakodate 2024に参加してきたので感想です。人生初の函館が良かったので観光成分も多め。

YAPCについて

前回のYAPC::Hiroshimaに続いて今回が2回目のYAPC参加です。YAPC::Hiroshimaではプロポーザルが通ったのですが今回は通らずでした。

出したプロポーザルはこちら 3Dセキュア温故知新: Web認証技術の発展が切り拓いた現在地 by ohbarye | トーク | YAPC::Hakodate 2024 #yapcjapan - fortee.jp。同僚の id:yutadayo がクレカ製造技術ネタでめちゃめちゃ強いのを出して大バズしていたので会社としては問題ない...が、個人としては悔しい!

yuta.hatenablog.com

心に残った発表たちの個人的総括

ブース担当したり廊下で人と話したりでセッションは半分ぐらいしか聞けなかったのですが、その中でも個人的に"つながり"を感じたテーマ「個人技と工芸と工学」について雑多に感想を残してみます。


まず、朝イチの深町先生による『シェルとPerlの使い分け、 そういった思考の道具は、どこから来て、どこへゆくのか?』。コンピュータ開発史の話が純粋に面白かった!

歴史哲学付近を専攻していた身としてはE.H.カーを引用されて大興奮。歴史とは事実の羅列ではなく、誰が、どんな信念の持ち主が語るのかによる過去との対話なので、深町先生のような方が何に着目して語るのか、という点がたいへん興味深く、身を乗り出して聞いていました。

コンピュータが廉価になり誰でもプログラミングに取り組めるようになり、個人の熟達や狂気が世界に影響を与えられるようになったという熱い歴史観。現代ではプログラミングは実用寄りなアート、陶芸のようなものと仰ってたのが興味深く、講演後にも少しお話しさせてもらった。


ソフトウェア開発には工芸(アート)的・職人芸的な側面はあるのは事実だし、キーノートの@moznionさんの"個人技"はまさにそのことを指摘し、研鑽のためのマインドやアプローチを自己体験を通じて語るものでありました。自分ももっと量を重ねなければ...と引き締まります。

@osyoyuさんによる『プロファイラ開発者と見る「推測するな、計測せよ」』, @chobishibaさんの『自分だけの世界を創るクリエイティブコーディング』などもまた、個人の興味や嗜好を掘り下げ、自身を磨き上げたところから生まれるものでした(2人とも同僚で、RubyKaigiやそれ以前から一貫して1つのテーマに専念してとにかく手を動かし続けており、とても尊敬しています)。

僕は短期的なゴール設定に対して全力を出すタイプの、いわば短距離走を繰り返しがちな性質があるのでそういう一点集中スタイルに憧れますね。


それはそれとして、プログラミングやソフトウェア開発においてあまりにもアートや職人芸の側面を強調しすぎる、(今回は誰もそんなふうには言ってないですが)"アート面しかないように扱う"ことには自分は否定的でいて、工学(エンジニアリング)の側面と併せ見ることが重要だと考えています。

工学と聞くと鈍重なプロセス、平均的な人々をうまく働かせる方法、といった「製造工学を無理にあてはめようとするイメージ」を持たれることもあります。しかし、設計工学、とりわけソフトウェア工学はもっと個を引き上げるためにあるものだと思います。

真のソフトウェア工学は、私たちの創造力と、高品質で役立つものを自信を持って作る能力を引き上げます。アイデアを掘り下げ、創造力を伸ばせるようになり、大規模で複雑なシステムを構築できるようになります。

継続的デリバリーのソフトウェア工学 もっと早く、もっと良いソフトウェアを作るための秘訣』より

ベストスピーカーを受賞した@osyoyuさんの発表はプロファイラ開発という個人技の極地みたいな出発点でありながら、万人に還元できる学びや一般解を展開されており、工芸と工学のミクソロジーとして素晴らしいものでした。発表の巧みさ、テーマがリーチする広さといった表象も重要なポイントではありますが、特に個人的に刺さったのはその点です。

ソフトウェア工学とは、ソフトウェアの現実的な問題に対する効率的、経済的な解を見つけるための経験的、科学的なアプローチの応用のことである。

同書より

これ。

プロセスの第1は当て推量です!当て推量が実験と一致しなければ、それ(当て推量)は間違っているということです

同書より。これはファインマン先生の引用

実験を通じて学びを反復し、前進的な改善を測るものが工学。経験主義的でもあり、量が質に転化するという@moznionさんの話とも繋がるのではないでしょうか。


長々書きましたが、@moznionさんが言っていた「個人技の向上の再現」には教育も重要であるが、同様に工学の理解と活用も大事、という見解です。

歴戦のプログラマが「年々若者が優秀になっている」とつぶやくのを何度も聞きます。ここには教育側の進歩だけでなく業界全体としてのソフトウェア工学の進歩があり、先達が経験や学びが広まっていることの証左ではと。

懇親会や廊下でもこのテーマについて何名かと議論させてもらいました。お付き合いいただいた皆さん、ありがとうございました。最近の関心について深掘りするきっかけをもらい、とても刺激的なイベントでした。スピーカーではなく、いち参加者として臨めるカンファレンスだと、こういう思索が落ち着いてできて良いですね。

観光

あとは観光ログです。

街並み

函館の元町やベイエリア、街並みがめちゃくちゃ良い。

グルメ

イベントでの食事が中心だったのだが、写真があまりない

ラッキーピエロYAPCのお弁当としていただいた。おいしいしボリュームもすごかった

やきとり弁当は米なしの串だけ食べたが、米のためにある"味"だった

メルカリの新サービス?

メルカリの新サービス2?

メロン

まぐろの頭肉!!!!まぐろで一番好きな部位だし、一番好きな寿司ネタの可能性ある

こっちはオオカミウオ。見た目はマジで怖いのだけど刺身はふわふわの白身。肉に例えるならホルモン系?

とうもろこしの天ぷら。甘すぎてすごい

くいだおれ太閤のたこ焼きもYAPCのお弁当

港近くの街角クレープ。クレープの写真がないのだけど、過去一番おいしいクレープだったかも

近くにあったSpecialty Coffee COCOROで淹れてもらったホンジュラスのコーヒーと一緒に食べられて最高だった

イカが不漁とのことでまったく食べる機会がなかったのが残念

歴史的建造物

いい...

動物

港で力強く餌をねだるやつ

放し飼いの猫

放し飼いの猫2

躍動する生命...


時間が足りなくて訪問できなかった場所、堪能できなかったグルメがあるのでまた行きたい

Pixel 5aがブラックアウトして動作しなくなったのでPixel 7 Proに交換してもらった

3年近く前に購入したPixel 5aを長らくメインのモバイル端末として使っていたのだが、あるとき突然ブラックアウトしてしまい、一切動かなくなってしまった。

Pixel 5a (シリーズ?) は基盤不良の問題が起きることで有名な機種らしく、公式からも2年間延長修理プログラムについての案内が出ていた。

CPUの動作温度が高い端末は熱ではんだが膨張と収縮を繰り返し、はんだクラック(割れ)が発生する確率が非常に高くなります。こちらのPixel 5aもその他の端末に比べ熱を持ちやすい傾向があるため同様の原因が考えられるかもしれません。


確かにしょっちゅう「デバイスの温度を下げる必要があります」のアラートが表示され、夏はポケットに入れていられないぐらい高熱にうなされていた。

おそらくトドメを刺したのが、ブラックアウト数日前にインストールしてやり始めた崩壊:スターレイルだ。ちょっとプレイしただけでPixel 5aがグワっと熱くなり、動作もカクつくのでまったく快適にプレイできない。続けるか迷うな〜と思っていたら先に端末が逝った。


Googleのサポートチャットに問い合わせ、先方の指示通りの操作を試したり製造番号を伝えたりすること1時間。最終的に端末の無償交換という結果になった。わりと話がスムーズだったので、不良が多く報告されていたロットだったのかもしれない。

最後の最後に「ご利用いただいていた製品 (Pixel 5a) は用意できないため代替品は7 Proとなりますがご容赦ください」というメッセージがやってきた。いつもの癖で「!?」とリプライしそうになったが、冷静に了承したところ本当に7 Proが来た。約5万円で購入した5aが3年かけて公式価格約12万円の7 Proに、"成"った

超幸運だったか?と思いXで検索してみると同じ対応を受けた方がそこそこいるようだった。また、毎日数十〜数百件の故障報告がなされているという噂もあり、すごいですね。


到着後の新端末のセットアップについて。移行元のバックアップは故障の前日で作成されていたのでその復元は問題なかったが、移行元の端末操作を要求するタイプのアプリやサービスは非常に困った。

特にモバイルSuicaが鬼門で、おサイフケータイSuicaアプリの間で無限ループが生じたり、Webサイトのヘルプからの動線で何がなんだかわからないうちに色々やっていたらいつの間にか復元できた。もう一度やれる気がしない。

また、良い話でいうと二要素認証のバックアップコードがいろんなところで生きて助かった。AuthyとかMetaMaskとか色々。端末をなくすような真似を自分はしないだろうとタカをくくる時もあったが、やはり重要。

NearDropでAndroidからmacOSに簡単にファイル共有

同じWi-Fiネットワーク下にあるAndroidからmacOSに写真や動画を共有したいとき、NearDropが便利。AirDropみたいな体験をfrom Android to macOSでもできる。

github.com


HomebrewでインストールしたNearDropを起動しておく。

brew install --no-quarantine grishka/grishka/neardrop

macOSでNearDropを起動していれば、AndroidからQuick Share (旧Nearby Share) で共有できる。

  • Androidバイスからファイルを選び、共有 > Quick Shareと進むとmacOSが共有先に現れるので選択する
  • macOSにデスクトップ通知が来るのでAcceptする
  • Downloadsフォルダにファイルが現れる

AirDropとほぼ同じ。


ソフトウェア開発やリサーチをしているときにめちゃめちゃ捗るようになった。

モバイルアプリのスクリーンショット、スクリーンキャストを撮ってPCに送って、検証結果として貼ったりバグレポートを書いたり。

モバイルアプリ開発者であればシミュレーターやadbでずっと苦なくできているぽいのだが、そうではない自分はこれまでAndroidバイスで撮影したファイルをいちいちSlack等にアップロードしてから回収していた。


教えてくれた同僚の@osyoyuにgiant thank you...


2024/09/28 11:06追記

Xで Pushbullet - Your devices working better together を教えてもらった。darumaさん、ありがとうございます!

こちらはファイル共有だけでなくユニバーサルクリップボードみたいなテキスト共有や、デバイスの通知をデスクトップで確認できたりするらしい。すごい!

足の裏に埋まった髪の毛を摘出した

少し前のことだが、足の裏に髪の毛が埋まって痛かった

割り箸のささくれやシャーペンの芯のように、鋭い先端を持つ髪の毛がちくっと刺さったというたまにあるレベルではなく、皮膚の下にメリっっっっと潜り込んでいた。刺さっているというより埋まっていた

▶️ここをクリックすると刺さっている様子が見られる(微閲覧注意)

完全に皮一枚の下に3cmほどの髪の毛が埋まっており、こんなことあるの...って思ってググったら、ふつうに"ある"らしかった。どうやら美容師さんたちの間でもたまに起きることらしい

毛は刺さる | 文京区小石川 もものマークのクリニック 院長ブログ

刺さった瞬間は先端だけだが、何らかの不思議な力で皮下をするするともぐっていき...このような事態になるとのこと

歩くたびに足裏がチクチクして不快で走れないレベルなのと、気づいたのが休日で皮膚科に行くまでに時間が空きそうなので自ら摘出を試みることにした

インターネットで見つかった教えの通りカミソリで薄皮が少しずつ削っていくこと10分...。ようやく埋没した髪の毛の"実体"が皮の外に出てきたのでピンセットでつまんで引っこ抜いてEND GAME。(実際はその途中で髪の毛が切れて第二ラウンドが始まったりしたのだが...)

▶️ここをクリックすると抜けたあとの様子が見られる(微閲覧注意)

むかし腰からくる坐骨神経痛をくらったことがあり、そのときも足裏に似たようなチクチク・ピリピリを感じていたのであわや再発かと思ったが、今回は表皮の問題だけでよかった

『コンビニ人間』読んだ

第155回芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読んだ。

かなり良かった。共感性のない主人公が"普通"を模索するためにとった策は「理想のコンビニ店員を演じる」というもので、コメディともとれる軽妙な読み心地で通俗小説的でありつつも、疎外論を通じた現代批判・問題提起とも取れる点が評価されたのだろうと思った。

職場において与えられた役割を徹底させられることで人間性を喪失してしまうのが労働疎外であるが、本作の主人公においては役割を与えられ全うすることで生き生きと充実した人生を送るという逆転が起きていてシニカル。

これを喜劇と見ることもできるし、日常で起きていることへの風刺と見ることもできる。労働の場でなくとも、社会集団の中で周囲から期待される役割を演じることで自己実現・満足を感じるような場面というのはありふれており、そういった人たちとコンビニ人間との違いは、その事実に自覚的であるかどうかだけにすぎないからだ。


ちょうど最近自分が書いた記事 人間をリソースと呼ぶことの何が問題なのか - valid,invalid にて、人間疎外のいち表象が"リソース"という呼称なのかもしれないと書いた。

この記事に対して「むしろ自分はリソースとして扱って欲しい。代えがきくから」といったコメントがついたのは非常に興味深かった。このコメント主がコンビニ人間のような存在であると断じたいわけではなく、むしろ自身の人間性を守るために職場での役割(リソース)と人間性をあえて分離させておく自己防衛の手段に見えたのだ。

自分もそうした防衛と無関係ではない。

『推し、燃ゆ』読んだ

第164回芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』を読んだ。

まず初めから最後まで終始「読みにくい」と感じた。この小説は初めから終わりまで女子高校生の視点、価値観、環境、思考によって描写されている体裁なのと、"推し"を自分の背骨として取り込むような経験のない自分とあまりにもかけ離れているということなのかもしれない。その再現度の高さやリアリティの精度は僕には判断がつかない。

あまりにも離れているがゆえに共感や追体験をすることがついぞできなかった*1のだが、心に残る表現はあった。感情や精神では泣きたくないと思っていても涙がこぼれそうになるシーン、生活のために風呂に入る・爪を切ると言ったシーンで主人公が発する「肉体に負けている感じがする」という表現である。

身体と精神の相互作用や不可分性は否定しようもないし統合的な理解やアプローチが暗に明に求められる。それでも、あまり現代的ではなかろうと思いつつ、精神を上位に置くプラトンデカルト的な理想への憧憬はある。自身の肉体・身体を信じきれない者にとって残る最後の切り札がこのような思想なのかもしれないということを、ふと想像しながら読んだ。

*1:純文学と思って読んでいるのでそういう期待はそもそもしてはいない

人間をリソースと呼ぶことの何が問題なのか

かねてより人間、とりわけ労働者や従業員をリソースと呼ぶことについて批判的な意見を聞くことがあった。

加えて、これらの主張に対するカウンターを見たこともある。「問題の所在が不明瞭」「情緒的な意見のみで代替が示されない」「人材を人財と書くような言葉遊びでは」等々。俗っぽく言えばここにあるのは、「モノ扱いしないでほしい」vs「とは言っても経営管理上はヒト・モノ・カネ・情報はリソースでしょ」という対立である。

この件について「人間をリソースと呼ぶことの問題についてアカデミックな見解・理論はあるのか」「人間をリソースと呼ぶことは、別の問題から来る結果なのか」が気になり調べてみたところ、経営管理における実利上の問題との接続を見出すことができた。*1

結論: 忙しい人のためのまとめ

3行まとめ。

  • 人間をリソースと呼ぶことへの拒否を「受け手の情緒的な問題だ」とは言い切るのは容易いが、人的資源管理を通じた経営管理上の課題を見落とす可能性がある。
  • なぜなら、まさにその「情緒や感情を持って行動する主体であること、言い換えれば"人間性"こそが価値を生む」と考えるのが人的資源管理の理念であり、労働力の側面に着目した文脈でリソースと呼称する場合、この理念に反した経営管理が行われている兆候でありうる。
  • 人的資源管理の理念に反するというのは単なる倫理や信条の問題ではなく、間接的あるいは直接的に組織文化・企業価値の毀損に繋がる可能性がある。

各論の実証可能性はさておき、どのように上記の主張に筋を通せるのかを以下に記述していく。

人的資源をリソースと呼ぶことの歴史

そもそも人間をリソースと表現するのはどこから始まったのか。その由来からネガティブに捉えられていたのだろうか。

人的資源管理論の始まり

人的資源管理論と組織文化の関係性」によれば、人的資源管理論は20世紀中盤にアメリカで起きた企業経営の問題に由来するという。労働生産性の低下の問題と、人間性が毀損される労働疎外*2の問題に端を発した社会運動が勃興していた当時*3、この問題は人事労務管理の領域で解決されなければならないとされ、Human Resource Management (HRM)が生まれた。この論は1980年代以降ヨーロッパや日本にも伝わり、日本には人的資源管理という訳語で定着した。*4

人間をリソースと表現したはしりと思われる人的資源管理論においては、前時代が毀損した人間性の回復を目的としており、リソースという呼称もモノ扱いするといった意味合いは感じられない。*5

人的資源管理論の有効実践の前提となる理念

人的資源管理はQuality of Working Lifeの話に閉じるものではなく、企業経営を支える有効的実践、競争優位性の創出も目的としている。その実践には以下の2つの管理理念を基礎とする。(「人的資源管理論と組織文化の関係性」)

  1. 経済的資源としての人間重視
  2. 人間的存在としての人間重視

加えて、人間はモノ・カネ・情報とは絶対的に異なる特性を持つことを前提とする。

  1. 人間はモノ・カネ・情報を活用する主体であり、経済活動における根源的に重要な存在である
  2. 人間は高度な思考をする主体であり、感情があり、自由で自律的な行動を求める
  3. (2)の特性があることから、どのような状況・環境でも機能する決定的なマネジメント手法が生まれることはありえない

2つの理念を逸脱したり、人間の資源特性を誤って捉えることは経済的にもネガティブに働くとしており、前時代を克服しようとする気概以上の"強さ"を感じる。

ドラッカーと人的資源

ドラッカー理論における人的資源概念の検討」によれば、人的資源管理は1960年代以降に誕生したが、ドラッカーは1950年代から人的資源の重要性を指摘していたという。曰く、人的資源は他の資源と異なり経営と双方向の関係が生じ、これを見落としてはならない

また、人的資源の「人的」部分は人格にあるとしていた。情緒だエモだと切り捨てられかねない箇所こそが最も重要視されていることは注目に値する。

リソースという表現が人間性軽視だというのはどこから?

ここまでの背景をおさえると人間をリソースと呼ぶ人的資源論の理念は、むしろ人間をリソースと呼んでほしくない側の主張と近しいことがわかる。

それにもかかわらずどのように捻れて「リソースと呼称することはモノ扱い」といった受容をされるに至ったのか。「人的資源管理論と組織文化の関係性」や「人的資源管理の現代的意義と検討課題」によると、人的資源管理の理念が忘れられ当初の想定通りに運用されていないことが原因だと言えそうだ。

人的資源管理の失敗

人的資源管理の現代的な課題と失敗は以下に起因する。

  1. 人的資源管理の経済面・戦略面に偏重して経営管理がなされること
  2. 人間性を捨象して労働力としてのリソースとみなすこと
  3. 他のリソースと混同すること

いずれも先述した人的資源管理論の有効実践の前提となる理念に反している。人的資源管理が生まれてから数十年が経過したことにより理念が忘れ去られ、有効的でない運用が横行しているのが課題だという。

マネジメントの次元の混同

ヘンリー・ミンツバーグ『マネジャーの実像』(2009)にも興味深い一節があった。*6

従業員を人的資源(リソース)と呼べば、従業員を人間ではなく数字として扱うことになる。言い換えれば人の存在全体ではなく労働力という一つの側面だけに着目する結果を招く。

人間の次元で対人関係のマネジメントをしているつもりで、その実、情報の次元で非人間的なマネジメントをしているケースが極めて多い。

ここでは従業員をリソースと呼ぶことにより異なる次元の物差し・議論を混同する危険性が示唆されている。この次元とは何かというと、ミンツバーグによればマネジメントには3つの次元があり、これらを行き来してブレンドすることが優れたマネジメントであるとされる。

  1. 情報の次元
  2. 人間の次元
  3. 行動の次元

経営上の数字としてあらわれるヘッドカウントはあくまで"情報の次元"におけるマネジメント対象。しかし、数字を構成する個々のメンバーの人間性は"人間の次元"におけるマネジメント対象。これらを適切に区別して場面に応じて扱うことが有効で実践的なマネジメントであるが、そうでないマネジメントも残念ながら存在する...という論旨。

実利的な課題は何なのか

ここまでで人的資源管理論が登場時の期待通りに理解・運用されていないという課題提起、および、その課題にリソースという呼称/ネーミングが関わっているという指摘を紹介した。

最後に人的資源管理論の理念に反することがどのように実利上の課題に繋がるのかを見る。

知的・物的生産量の低下、価値創出の機会損失

人的資源管理論の人間観として特徴的なのは人の人間性を強調する点ではなく、人の人間性に資源的価値を見出そうとすることである。前述した「モノ・カネ・情報を活用する主体」「高度な思考をする主体」という特殊性こそが価値を創出する源泉であり、モノ・カネ・情報では代替できないという点だ。

人をモノ・カネ・情報と同列に扱うことはこの人間観に反するだけでなく、経営管理を通じて実現したい価値、特に人間性に依拠する価値を生み出す能力の喪失につながる。抽象的な話が続いたが具体的には下記のような事例を想像できる。

  • モノ扱いされることがモチベーションの低下や職業倫理の喪失を起こし、知的・物的生産量が低下する
  • 代替可能な範囲の業務しか委任されず高度な思考が行われなくなり、価値創出の機会を損失する
  • 人をモノやカネを交換可能とみなし、非現実的な人員計画やスケジュールを立案する

これらはいずれも実利的な課題である。

組織文化の衰退・破壊

人が組織文化を構成する/つくりだす最重要要因である。また、組織文化は集団における模範的な行動を再生産し、企業内の価値創出システムとして機能する。

人間の労働力の側面のみを数字で扱うことは人間の組織文化の形成能力を軽視するものであり、組織文化の再生産能力や関与度が低い構成員を増やし、組織文化の衰退あるいは破壊を招きうる。組織文化が経営や事業にどのような影響を及ぼすかについては数百もの書籍や研究が存在するはずなのでここでは述べない。

こちらも間接的ではあるが実利にかかわる課題である。


以上、ここまでの調べにより冒頭の「結論」に書いた主張に強度を与えられるのではと考えた。

なお、長々と書いたが自分には人間をリソースと呼ぶことについて特段の主張はない一方、ソフトウェア工学やプロジェクトマネジメント、リスク管理には関心がある。その範疇で人的資源管理や経営管理について遠くから考える機会は多々あったように思う。特に本記事を書きながら『人月の神話』のことを思い出していた。

(余談)呼称が問題を生むのか、問題が呼称に現れるのかについては因果性のジレンマである。とはいえ、後述する人的資源管理論の歴史や理念を主張の拠り所とするなら、人間をリソースと呼ぶことが問題であると声高に言うより、経営管理やマネジメントの問題の兆候が呼称に現れていることを懸念するとするほうが話を通しやすそうに思えた。

まだわかっていないこと

  • 人的資源管理は2024年現在においても真に主流の経営管理手法といえるのか。アカデミックにおける最新の動向はどのようなものか。特に2020年以降の労働環境の変化が本論とどう関わるか。
  • 人的資源管理にまつわる実証的なデータやエビデンスがどれだけあるのか。
  • 本論は国内外の話をごちゃまぜにしているが、文化的差異がどれだけあるのか。

本記事は非専門家による短時間の調査結果に過ぎないので、詳しい読者がいたらぜひ教えていただきたい。

*1:本記事では経営管理を「企業や組織が目標達成のために計画を策定し、実行し、評価、監視する一連のプロセス」の意味で用いる。この中にはヒト・モノ・カネ・情報の管理・活用が含まれる。

*2:マルクスにおける"労働が労働者の人間性を疎外すること"。 https://kotobank.jp/word/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%96%8E%E5%A4%96-1440282 余談だが本記事の筆者は学部の卒論でヘーゲルフォイエルバッハ疎外論について書いた

*3:あまりよくわかってないがフレデリック・テイラーアンリ・ファヨールから数十年後のムーブメント?

*4:企業戦略と人事管理の一貫性、戦略的な側面に着目して戦略的人的資源管理(Strategic Human Resource Management)という呼称も用いられているとのことだが、本稿では区別しない

*5:なお、日本語における"資源"が物的で代替可能なイメージを持つのに比べ、英語における"resource"はいくらかポジティブな意味合いを持つとのこと。重要人物を"resouce person"と表現するなど

*6:同書が手元にないため、記事筆者の記憶に基づく要約