かねてより人間、とりわけ労働者や従業員をリソースと呼ぶことについて批判的な意見を聞くことがあった。
加えて、これらの主張に対するカウンターを見たこともある。「問題の所在が不明瞭」「情緒的な意見のみで代替が示されない」「人材を人財と書くような言葉遊びでは」等々。俗っぽく言えばここにあるのは、「モノ扱いしないでほしい」vs「とは言っても経営管理上はヒト・モノ・カネ・情報はリソースでしょ」という対立である。
この件について「人間をリソースと呼ぶことの問題についてアカデミックな見解・理論はあるのか」「人間をリソースと呼ぶことは、別の問題から来る結果なのか」が気になり調べてみたところ、経営管理における実利上の問題との接続を見出すことができた。*1
結論: 忙しい人のためのまとめ
3行まとめ。
- 人間をリソースと呼ぶことへの拒否を「受け手の情緒的な問題だ」とは言い切るのは容易いが、人的資源管理を通じた経営管理上の課題を見落とす可能性がある。
- なぜなら、まさにその「情緒や感情を持って行動する主体であること、言い換えれば"人間性"こそが価値を生む」と考えるのが人的資源管理の理念であり、労働力の側面に着目した文脈でリソースと呼称する場合、この理念に反した経営管理が行われている兆候でありうる。
- 人的資源管理の理念に反するというのは単なる倫理や信条の問題ではなく、間接的あるいは直接的に組織文化・企業価値の毀損に繋がる可能性がある。
各論の実証可能性はさておき、どのように上記の主張に筋を通せるのかを以下に記述していく。
人的資源をリソースと呼ぶことの歴史
そもそも人間をリソースと表現するのはどこから始まったのか。その由来からネガティブに捉えられていたのだろうか。
人的資源管理論の始まり
「人的資源管理論と組織文化の関係性」によれば、人的資源管理論は20世紀中盤にアメリカで起きた企業経営の問題に由来するという。労働生産性の低下の問題と、人間性が毀損される労働疎外*2の問題に端を発した社会運動が勃興していた当時*3、この問題は人事労務管理の領域で解決されなければならないとされ、Human Resource Management (HRM)が生まれた。この論は1980年代以降ヨーロッパや日本にも伝わり、日本には人的資源管理という訳語で定着した。*4
人間をリソースと表現したはしりと思われる人的資源管理論においては、前時代が毀損した人間性の回復を目的としており、リソースという呼称もモノ扱いするといった意味合いは感じられない。*5
人的資源管理論の有効実践の前提となる理念
人的資源管理はQuality of Working Lifeの話に閉じるものではなく、企業経営を支える有効的実践、競争優位性の創出も目的としている。その実践には以下の2つの管理理念を基礎とする。(「人的資源管理論と組織文化の関係性」)
- 経済的資源としての人間重視
- 人間的存在としての人間重視
加えて、人間はモノ・カネ・情報とは絶対的に異なる特性を持つことを前提とする。
- 人間はモノ・カネ・情報を活用する主体であり、経済活動における根源的に重要な存在である
- 人間は高度な思考をする主体であり、感情があり、自由で自律的な行動を求める
- (2)の特性があることから、どのような状況・環境でも機能する決定的なマネジメント手法が生まれることはありえない
2つの理念を逸脱したり、人間の資源特性を誤って捉えることは経済的にもネガティブに働くとしており、前時代を克服しようとする気概以上の"強さ"を感じる。
「ドラッカー理論における人的資源概念の検討」によれば、人的資源管理は1960年代以降に誕生したが、ドラッカーは1950年代から人的資源の重要性を指摘していたという。曰く、人的資源は他の資源と異なり経営と双方向の関係が生じ、これを見落としてはならない。
また、人的資源の「人的」部分は人格にあるとしていた。情緒だエモだと切り捨てられかねない箇所こそが最も重要視されていることは注目に値する。
リソースという表現が人間性軽視だというのはどこから?
ここまでの背景をおさえると人間をリソースと呼ぶ人的資源論の理念は、むしろ人間をリソースと呼んでほしくない側の主張と近しいことがわかる。
それにもかかわらずどのように捻れて「リソースと呼称することはモノ扱い」といった受容をされるに至ったのか。「人的資源管理論と組織文化の関係性」や「人的資源管理の現代的意義と検討課題」によると、人的資源管理の理念が忘れられ当初の想定通りに運用されていないことが原因だと言えそうだ。
人的資源管理の失敗
人的資源管理の現代的な課題と失敗は以下に起因する。
- 人的資源管理の経済面・戦略面に偏重して経営管理がなされること
- 人間性を捨象して労働力としてのリソースとみなすこと
- 他のリソースと混同すること
いずれも先述した人的資源管理論の有効実践の前提となる理念に反している。人的資源管理が生まれてから数十年が経過したことにより理念が忘れ去られ、有効的でない運用が横行しているのが課題だという。
マネジメントの次元の混同
ヘンリー・ミンツバーグ『マネジャーの実像』(2009)にも興味深い一節があった。*6
従業員を人的資源(リソース)と呼べば、従業員を人間ではなく数字として扱うことになる。言い換えれば人の存在全体ではなく労働力という一つの側面だけに着目する結果を招く。
人間の次元で対人関係のマネジメントをしているつもりで、その実、情報の次元で非人間的なマネジメントをしているケースが極めて多い。
ここでは従業員をリソースと呼ぶことにより異なる次元の物差し・議論を混同する危険性が示唆されている。この次元とは何かというと、ミンツバーグによればマネジメントには3つの次元があり、これらを行き来してブレンドすることが優れたマネジメントであるとされる。
- 情報の次元
- 人間の次元
- 行動の次元
経営上の数字としてあらわれるヘッドカウントはあくまで"情報の次元"におけるマネジメント対象。しかし、数字を構成する個々のメンバーの人間性は"人間の次元"におけるマネジメント対象。これらを適切に区別して場面に応じて扱うことが有効で実践的なマネジメントであるが、そうでないマネジメントも残念ながら存在する...という論旨。
実利的な課題は何なのか
ここまでで人的資源管理論が登場時の期待通りに理解・運用されていないという課題提起、および、その課題にリソースという呼称/ネーミングが関わっているという指摘を紹介した。
最後に人的資源管理論の理念に反することがどのように実利上の課題に繋がるのかを見る。
知的・物的生産量の低下、価値創出の機会損失
人的資源管理論の人間観として特徴的なのは人の人間性を強調する点ではなく、人の人間性に資源的価値を見出そうとすることである。前述した「モノ・カネ・情報を活用する主体」「高度な思考をする主体」という特殊性こそが価値を創出する源泉であり、モノ・カネ・情報では代替できないという点だ。
人をモノ・カネ・情報と同列に扱うことはこの人間観に反するだけでなく、経営管理を通じて実現したい価値、特に人間性に依拠する価値を生み出す能力の喪失につながる。抽象的な話が続いたが具体的には下記のような事例を想像できる。
- モノ扱いされることがモチベーションの低下や職業倫理の喪失を起こし、知的・物的生産量が低下する
- 代替可能な範囲の業務しか委任されず高度な思考が行われなくなり、価値創出の機会を損失する
- 人をモノやカネを交換可能とみなし、非現実的な人員計画やスケジュールを立案する
これらはいずれも実利的な課題である。
組織文化の衰退・破壊
人が組織文化を構成する/つくりだす最重要要因である。また、組織文化は集団における模範的な行動を再生産し、企業内の価値創出システムとして機能する。
人間の労働力の側面のみを数字で扱うことは人間の組織文化の形成能力を軽視するものであり、組織文化の再生産能力や関与度が低い構成員を増やし、組織文化の衰退あるいは破壊を招きうる。組織文化が経営や事業にどのような影響を及ぼすかについては数百もの書籍や研究が存在するはずなのでここでは述べない。
こちらも間接的ではあるが実利にかかわる課題である。
以上、ここまでの調べにより冒頭の「結論」に書いた主張に強度を与えられるのではと考えた。
なお、長々と書いたが自分には人間をリソースと呼ぶことについて特段の主張はない一方、ソフトウェア工学やプロジェクトマネジメント、リスク管理には関心がある。その範疇で人的資源管理や経営管理について遠くから考える機会は多々あったように思う。特に本記事を書きながら『人月の神話』のことを思い出していた。
(余談)呼称が問題を生むのか、問題が呼称に現れるのかについては因果性のジレンマである。とはいえ、後述する人的資源管理論の歴史や理念を主張の拠り所とするなら、人間をリソースと呼ぶことが問題であると声高に言うより、経営管理やマネジメントの問題の兆候が呼称に現れていることを懸念するとするほうが話を通しやすそうに思えた。
まだわかっていないこと
- 人的資源管理は2024年現在においても真に主流の経営管理手法といえるのか。アカデミックにおける最新の動向はどのようなものか。特に2020年以降の労働環境の変化が本論とどう関わるか。
- 人的資源管理にまつわる実証的なデータやエビデンスがどれだけあるのか。
- 本論は国内外の話をごちゃまぜにしているが、文化的差異がどれだけあるのか。
本記事は非専門家による短時間の調査結果に過ぎないので、詳しい読者がいたらぜひ教えていただきたい。