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関心を持てる事柄について

ナイロン100℃の「消失」 失わない努力

ケラリーノ・サンドロヴィッチ主催の劇団、ナイロン100℃の「消失」を本多劇場で観た。

11年前に上演された傑作をオリジナルメンバーで再演するということで前評判からして凄かった。

自分に演劇を教えてくれた友人も「必ず観ろ!!」と推してきたので、かなり前にチケットを予約し、千秋楽の直前である 12月26日14:00 の回を観ることができた。

ストーリー

公式より

クリスマスの夜、パーティーの計画を練る兄チャズ(大倉孝二)と弟スタンリー(みのすけ)。 しかし、楽しい一夜になるはずが、ちょっとした誤算からその計画はもろくも崩れ去ってしまう。 スタンリーが想いを寄せるスワンレイク犬山イヌコ)、謎のヤミ医者ドーネン(三宅弘城)、 兄弟の部屋を間借りしたいと言うネハムキン(松永玲子)、ガスの点検に来たと言うジャック(八嶋智人)。 兄弟の家に集まった彼らの抱えていた「秘密」が彼らの心を離れた時、 そこから生まれてくる全ての感情が彼らを破滅へと導いていく。破滅の先に彼らが見たものとは?

付け加えると、 彼らが暮らす世界は戦争*1を体験した直後で、壊れた建物・汚染された環境・かつての技術力で打ち上げたがもう二度と回収できない衛星*2といった悲壮感に包まれている。既に何かを失っている人々の話。

FFの後半のようなディストピア感はそれだけで批評性があって好きだ。

感想

と、ここまで持ち上げたものの、驚くような感動が無くて若干へこんだ。 好みの世界観とこれだけのキャストが揃っていてストーリーも申し分無く面白かったのになぜか。

うーん、舞台の上に緊張感はあったし、何が足りないのかよくわからなかった。自分の観劇態度や精神に問題があったかもしれない。

作品にもっと近づこうと考えた。

善意の人

「消失」ではナイロン100℃ではよくある"不条理"が違った形で提示されていたように思う。

既に何かを失っている人々がこれ以上失わないように生きていて、そこには前向きな意思がある(パンフレットでは"善意"と呼んでいた)。そこに何かを侵そうとする悪人がいない、というのが印象的だった。

何も起きていない時から既に終末と背中合わせであるような緊張感があり、おおよそ善人の部類に属する人たちが集まって自分を守ろうとしただけなのになぜか事態が悪化に向かっていく。

彼らそれぞれにそれぞれの善意があり、自分の見える世界を絶対視している。どうしようもなく隔たる他人との善意のズレが最後には悲劇に引き起こす。

現実との比較

こうした不条理は舞台の上だけではない、という実感を僕らが持っていればいるほど迫ってくる力があるテーマだと思う。

実際、再演を前にした俳優陣が「11年前に比べて現実とより近くなってしまった」と語っていたのは興味深かった。


よく思うのは共同体の"日常"や"普通"を保つには個々の努力が必要だということ。 善意や努力を尽くさないとたやすく消失してしまうものを失わない為に、悲壮感や諦念を笑い飛ばすような力が必要だし、それが芸術や演劇の中に見出だせると信じている人々がいる。

そうした期待、というより信頼が自分には足りなかったのかもしれない。 観劇後にそんなことをぼんやり考えていた。

*1:架空の戦争

*2:第二の"月"と呼ばれている